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【江戸末期から昭和初期まで活躍した渋沢栄一】江戸の幕臣から明治新政府の役人も務めたその半生に迫る


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渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体澁澤 榮一1840年3月16日天保11年2月13日〉- 1931年昭和6年〉11月11日)は、日本実業家[1]位階勲等爵位正二位勲一等子爵雅号青淵(せいえん)。


江戸時代末期に農民名主身分)から武士一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜将軍就任にともない幕臣となり[2]明治政府では官僚も務めた。


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郷里にて 1840年

渋沢栄一の生家である旧渋沢邸「中の家」。

武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門(1809年 - 1872年)[7] とゑい(1811年 - 1874年)の姉と妹を持つ長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。


渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。


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栄一も父と共に信州上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。


14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。


一方で、5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。


剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。


安政5年(1858年)18歳の時、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代(1841〜82)と結婚した。


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尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年

文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。


その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。


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親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる。


士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回して農兵の募集で手腕を発揮した。


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幕臣となりヨーロッパへ 1867年



慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。


その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。


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フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている[8]


パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。


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慶応3年(1867年) Nippon.com, Shibusawa Memorial Museum, Kita, Tokyo https://www.nippon.com/en/japan-topics/b06903/rising-in-the-world-the-roots-of-the-businessmen-who-built-japanese-capitalism.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2731660による



一年半ほどの滞欧中に洋装を整え、当時の日本男子が結っていたを切り、送られてきたその写真を見た妻は嘆いたという[4]


渋沢は後年、山高帽をかぶり、それを国産化する日本製帽の操業にも携わり、日本で男性が帽子着用を好む文化の定着に一役買った[4]。この経験を通じ、ヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けた[要出典]。この見聞した経験が、栄一の人生を大きく変えた。


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静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年


帰国後、駿府宝台院(現所在地は静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受するも旧恩に報いるため、駿府(静岡)に留まり静岡藩に出仕した。


静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭の平岡準に相談し、明治2年(1869年)1月には商法会議所を設立した。この商法会議所では銀行的業務と物産販売を兼ね、小野組で糸店を担う古河市兵衛に取り扱いを依頼することもあった[9]


1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。


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一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。


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大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。


さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。


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しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。


この間、戊辰戦争を旧幕府側で戦い投獄されていた従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話し養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出している。同じく戊辰戦争を幕府側で戦った従兄の尾高惇忠には富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げを託している。



出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』渋沢栄一 クリエイティブコモンズライセンスに基づく


記事確認・来歴点検等:公益社団法人日本証券アナリスト協会認定 資産形成コンサルタント / 日本証券業協会 一種外務員資格者 / 日本FP協会認定AFP(Affiliated Financial Planner)技能士 桜庭史門



 
 
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